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私が開院した理由

4人兄姉の末っ子の私は、2人の兄がそうだったようにリトルリーグに入団しました。

小さい頃から、兄弟や友達と野球をして遊ぶことが多かった私は、リトルリーグで野球が上手くなるにつれて、将来プロ野球選手になることを夢見るようになっていたのでした。

小学6年生の時でした、キャッチャーをしていた私は、セカンド送球の練習中に、「ズキッ」とした痛みが肩に出ました。

「この痛み、もしかしてヤバイかな?」と感じつつも、痛みを我慢して、周りに気づかれないように、ごまかして投げていました。

チーム全体では、100人以上の選手がいて競争が激しかったため、「肩が痛い」と監督に報告する事で試合に出れなくなるのが怖くて、言い出せなかったのです。

徐々に痛みは増していき、全力で投げれなくなり、とうとう痛みを隠すことが出来なくなりました。

監督には、投球禁止を言い渡され、その時、鍼灸院で治療もすることになりました。
しばらくすると、痛みは徐々に引いていき、練習に復帰することが出来ました。
この時、初めて鍼灸師という職業があることを知りました。

中学・高校と野球を続けていましたが、肩の痛みは、繰り返し襲ってきました。

高校で肩を痛めた時でした、

「練習を休むのはイヤだ。それなら自分で治そう。」

と考えた私は、

リハビリトレーニングを勉強して、肩の痛みを克服しようと考えました。

そして、色んな書店のスポーツコーナーに行っては、野球肩に関する書籍を探しまわりました。

当時は、スポーツ医学も進んでおらず、野球肩のリハビリ方法に関して詳しい書籍がなかったのですが、多くの書籍を参考にしながら、筋力トレーニングや、投げ方を研究するうちに、痛み無くプレーできるようになりました。

ちょうどその時、肘を痛めたプロ野球選手のピッチャーが、アメリカの有名なスポーツドクターの手術を受けて復帰する姿がテレビで放送されました。

その時に、

「スポーツドクターってかっこいいな。」

と強く思ったのを覚えています。

高校野球では、大阪府大会で、ベスト8まで勝ち進んだりもしましたが、自分の野球の能力の限界も感じていました。

高校3年で進路を考える時には、スポーツドクターになって、野球選手やその他の競技選手のサポートなどで出来ないかな?

そう考えて、医学部を目指した時期もありましたが、学力不足から断念しました。

その後、将来の事を深く考えずに大学に進学。

大学卒業後に選んだ仕事は、新築分譲マンション販売でした。その仕事を選んだのは、成績次第で高給も可能という理由でした。

契約も頂いたり、宅地建物取引士試験に合格したりしたものの、体育会系の社風に馴染めず、今後も、この会社で仕事を続けるのに疑問を感じて、退職することに。

それからは、大学時代にお世話になったアルバイト先で働く生活が始まりました。
大学卒業時の仕事の選択が安易だった事を後悔しました。

それからは、一生を通じて関わる仕事として、自分がしたい仕事とはどんな仕事だろうか?

と何度も自問して、将来の仕事について真剣に考えました。

そして、自分は、
スポーツ、運動が好きだったこと、
野球で、肩、肘を故障したこと、
リハビリを独学で勉強したこと、
スポーツドクターに憧れたこと
などを思い出しました。

過去の自分と同じように、故障、ケガに苦しむスポーツ選手のケア、パフォーマンスアップの手助けをしたいという思いが湧き出てきました。

そうして、出てきた答えが【スポーツトレーナー】でした。

サッカーJ1リーグのトレーナーをしている方を紹介して頂く機会があり、「スポーツトレーナーになるには鍼灸師の免許を取るといい。」そんな助言をうけて、専門学校に通いながら治療院で働く生活が始まりました。

【修行時代に開院を目指す】

修行先の治療院は、1日250人以上の患者さんが来院していました。

専門学生の間は施術の補助で、休みなく動き回っていました。

1日の仕事が終わればクタクタでしたが、学ぶことは山積みでしたので、仕事を終えて帰宅後に、夜中12時過ぎまで勉強、朝は5時半に起きて勉強。

新しい事を学べば学ぶほど自分自身の成長が感じられ、毎日が充実していました。

疲れてしまって、机の上で寝てしまう事もしばしばありましたが、年齢が20代でしたので、寝れば体力は回復しましたので、しんどい毎日も乗り越えられました。

数年が経過して、患者さんの施術を担当するようになったある時、担当する患者さんから、

「担当者を他の先生にしてほしい。」

との要望がありました。

「いったい、何がいけなかったのだろう・・・」

自分としては懸命に施術していたので、その事を伝えられた時はショックでした。

当初、理由がわからず悩みましたが、しばらくして理由に気づきました。

その時の私は、患部の症状の変化にばかり一生懸命になって、痛みや症状で、日常生活を満足に送れない患者さんが、どういった気持ちで生活していてどんな心理状態であるのかを理解していなかったのです。

心身ともに、弱っていた患者さんには、気持ちを考えずに、思いやりのかけた、私の言動が負担になっていたのです。

それからは、患部の症状を改善することはもちろん、患者さんの生活背景を考えた上で、
症状回復に向けて、気持ち・感情を前向きになれるような対応ができる施術者になろうと思いました。

そんな経験もしながら、施術年数を重ねていくと

椎間板ヘルニア、坐骨神経痛、変形性膝関節症、脊柱管狭窄症、

などの痛みや症状で

【立つ、座る、歩く、寝る】

といった、日常生活動作が不自由で、困っている患者さんから、

「歩いて買い物に行けた」
「夜、痛み無く眠れるようになった」
「退職せずに、仕事に復帰出来た」
「念願の海外旅行に行けた」

といった、喜びのお声を頂けるようになりました。

症状改善までの道のりで、大変な苦労をされたことが想像できたので、喜びもひとしおでした。

仕事にやりがいを感じ、施術が楽しくてしかたがない時期でした。

実は…この頃「スポーツトレーナー」志望の気持ちに変化が表れていました。

それには、日常生活動作に困っている患者さんと毎日接したり、私の両親が過去に入退院を
繰り返していた事が影響しています。

私の母は、今でこそ元気ですが、病気や事故が原因で5回入院しています。

母は幼少期から体が弱かったのですが、それに加えて仕事に家事にと、ずっと頑張ってきて無理がたたったのでしょう。

末っ子で甘えただった私は、母が入院すると、「お母ちゃん、家におれへん。」と言っては泣いていたそうです。

幼少期の私は、家族全員での食事や団らんが、何よりも大好きだったので、その場に、母が居ないことが、よっぽど寂しかったんだと思います。

父は、プラスチック容器の加工をする自営業者で、母と2人で働いていました。

毎朝早くから夜遅くまで、家族のために懸命に働き、身体も丈夫でしたが、ある時、B型肝炎が発症し肝硬変にまで進行しました。

腹水が貯まって苦しそうにしている父の姿をみるのは辛く、食事やサプリメントで少しでも改善出来ないかと父の病気をきっかけに私は栄養学を学びましたが、その後、肝硬変から肝臓がんになり、手術・抗がん剤治療の甲斐もなく私が29才の時に、父は他界しました。

家族の誰かの健康が損なわれることは、本人も含めて、家族のみんなが、心身ともに辛いものです。

父の死後、治療院で日常生活動作に苦しむ患者さんを目の当たりにするにつれて、

「家庭の健康をサポートできる医療人になりたい。」
「家庭の笑顔と団らんを増やしたい。」

次第に、そう強く思うようになりました。

整体院の前には、前を通る保育園児に喜んでもらうために、アンパンマンやピカチュウの人形などを飾っています。

園児達が喜ぶ姿をみると本当に心が暖まります。

子供が最も影響を受けるのは両親です。

子供の笑顔のためには、何と言っても親の笑顔が大切です。

お母さん・お父さんが、元気で機嫌よくしていることが、家庭の笑顔と団らんにつながります。

だから私は、家事に仕事にがんばっているお母さん、お父さんの健康をサポートしたいと考えています。

 

武川整骨院 院長 武川 宏彰 :たけがわ ひろあき

【生野区・東成区・今里の整体】医師も推薦する武川整骨院

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